心にのこる物語

いつしか心にのこる物語、そこに人それぞれの人生がある。

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2010/07/24

「だから、さっきから、言っているでしょ。」

「絶対、間違いでは、ありません。」

「私が言っていることに間違いはないのです。」

 

争い事ともなれば、皆、決まって、このように伝えてくるのである。

 

この話の受け手は、依頼者を映画で言えば、主役のように無意識に捉えていく。

そして、いつの間にか、主役が悪者であるはずがない、

きっと、本人が言うことが全て正しいと思えてくるのである。

 

ただ、悲しいことに、この前提が崩れないことは滅多にないことであって、多くの場合はそれが、覆るのである。

 

相手方の話を聞けば、次第にそちらの話の方が正しいのではないかとの思いを抱くことは珍しいことではないのだ。

 

そして、相手方から聞いた話を依頼者に話、問いただす。

 

答えは、同じである。

 

「そうでしょ。だから、私の言っている通りではないですか。」

 

「でも、相手方は、・・・って、言っているよ。」

 

「それは、先生の聞き方の問題でしょ。言っていることは同じじゃ、ないですか。」

「絶対、間違いでは、ありません。」

「私が言っていることに間違いはないのです。」

 

『本当はどっち、どっちが正しいの、真実って、何?』

そう、思えてくる。

 

そして、ある日、どちらも正しくもあり、どちらも正しくもないと気づく。

 

そのように気付いたその瞬間は「自分が毎日聞く自分の声が、テープで聞く自分の声とは全く違う声であること」を始めて、知った瞬間と良く似た感覚である。

 

この感覚を一度知ると、

同じ時を過ごし、同じものを見れば、それは同じでなければならない。

を認めるのが難しくなる。

 

それは、本当は、決して同じではないのだ。と感じだす。

 

人は自らが感じ見ているものを、自らの感覚で見るのであって、決して、他人の体を借りて見る訳ではないのだ。

 

わかった、知った、そして、真実と感じるのは、たまたま、同じと感じているような回答を得ただけで、本当かどうかとは、別のことであるはずだ。

 

しかし、世の中は、いつしかそれが真実となってしまう。

 

そうなると、職業病の者は、無意識に 他人は常に自分とは違う物体を通じて、物事を見ていることを意識しなければならない。

 

別に見えているはずだ。いや、別に見ても、感覚は同じに見えているかもしれない。その逆もある。

 

それが本当であって、実は事象とは違う物語となってしまっている真実なのかもしれない。

同じ物語りでありながら、ある人には真実で、ある人には虚実でもあるのかもしれない。

 

そう、潜在意識に埋め込んでしまう。

 

違う物語でも同じと感じることもあればそうでないこともあるのだろう。

 そう、思えるのである。

 

もう、少し眠りたい。

人は、時にそのような衝動にかられる。

それは眠気ばかりではなく、自分の心と目に映った事象との辻褄を合せる心の作業のための衝動なのかもしれない。

 

人は人から聞いた話を、知らず知らずに自ら経験に当てはめて判断をしている。

腕を失った者のその痛みを聞けば、自らの経験で感じた他の痛みをそれに当てはめる。

 

どんなに同情しても、自分の声は録音で聴く場合とは違うのと同じく、その同情は自らのフィルターを通した同情でしかないのだ。

 

抑圧された者だけが感じあう優しさと愛と悲しみ。

 

離婚した者しかわからない、子供を産んだ者したわからない。

子供を失った者しかわからない。

 

結婚したことのない者に何がわかるの?

 

人は、そのように問いかける。それは、本当?、それは、真実?、

 

常に他人の苦しみ、争い、非日常を聞き続けることを日常とする者にとって、自らの痛みとは何なのだろうか。

 

いつしか他人のそれが自らのフィルターを通した自らの一つの体験となり、また、新たな物語を作っていく。

 

行きつく先は分からない。

 

本当って何?、これを探す旅は、いつまでも、続く。